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産出中心の視点への移行

 

対象を観察者の視点から捉えるということは、対象を含む環境を観察する側か ら分断し、環境において対象とその背景を分離して、分離された背景、つまり 外界と対象との関連を問うことであると解釈される。この観点から、対象は外 界からの入力−外界への出力の関係という形式でモデリング出来る。モデリン グにおいて、微分・差分方程式系や Turing Machine などの記号力学系、ルー ルベースシステムなどが力を発揮す る。 本論で言うところの凡人とは、この観点からの対象のモデリ ングに縛られた人間である。

上記の骨子3、4から、オートポイエーシスは上記の観察者の視点を放棄すること を要求する。つまり、 視点を環境の外側に置くのではなく、対象の内部に置くのである。この時、オー トポイエーシスシステムは構成要素の産出を繰り返すだけのプロセスのネット ワークであり、産出の連続により自己の境界を決定する。河本の著書 [5]の中で、観察者の 視点の例として以下のものが挙げられている。地面を円を描きながら疾走する 者がいるとすると、観察者からは円を描いて境界を決定しているように見える が、疾走者はただ疾走の行為を連続的に産出しているだけであり、疾走が止ま れば境界は消滅する。

この視点の変更が凡人にとっては非常に苦痛となる。凡人は何か対象があれば、 真っ先に観察者の視点に移行し、そこから対象を静的な写像か力学系のような イメージで眺めてしまうことに縛られているからである。無理にシステム内部 に視点を移そうとしても、今度は構成要素の産出プロセス自体を対象として、 やはり観察者の視点に立ってしまう。先の疾走者の例であれば、疾走者自体を 対象とし疾走している空間を環境とした入出力システムを想定してしまう。 凡人が視点の移動を行うには、視点自体の採り方に関する知見(哲学でいうと ころの認識論)が必要であると考えられる。



Tatsuya Nomura
Fri Aug 22 19:05:39 JST 1997